コシチュシュコの蜂起
ラツワヴィツェの戦い(クラクフ国立美術館所蔵の油絵、ヤン・マテイコ画)
時1794年3月24日-11月16日
場所ポーランド・リトアニア共和国
結果ロシア・プロイセンの勝利
領土の
変化第三次ポーランド分割、ポーランド・リトアニア共和国の消滅
衝突した勢力
ロシア帝国
プロイセン王国 ポーランド・リトアニア共和国
指揮官
イヴァン・フェルセン
コシチュシュコの蜂起(コシチュシュコのほうき、ポーランド語: Insurekcja ko?ciuszkowska)は、1794年にポーランド・リトアニア共和国で発生した、ロシア帝国・プロイセン王国に対する反乱[1]。日本では伝統的にコシューシコの蜂起、コシチューシコの蜂起という表記も用いられる。タデウシュ・コシチュシュコの主導の下、ポーランド・リトアニア共和国の残部とプロイセン領ポーランドで蜂起が起きた。1793年の第二次ポーランド分割によりポーランド支配を拡大するロシア帝国や親露派マグナートによるタルゴヴィツァ連盟と戦い、ポーランド・リトアニア共和国の復興を企図したが失敗に終わった。その結果、ポーランド・リトアニア共和国は最後まで残っていた領土も分割されて滅亡した。 18世紀前半までに、ポーランド・リトアニア各地はマグナートの手に握られ、また彼らは黄金の自由の時代を通じて得てきた数々の特権を盾に、それを阻害しうるようなあらゆる改革に反対していた[2]。セイムでは自由拒否権の濫用により議会制度が麻痺し、貴族間や外国勢力による買収活動が横行して、1世紀以上にわたりポーランド・リトアニア共和国は国家機能が半ば崩壊した状態が続いていた[3][4]。 17世紀中盤から共和国の改革を進めようという機運は続いていた[5]が、それは大貴族のみならず、共和国の弱体化を望む周辺諸国にとっても好ましくないことだった[6]。マグナートやシュラフタの軍役回避策が重なって、ポーランド・リトアニア共和国軍はわずか1万6000人にまで減少しており、30万人を擁するロシア軍や、20万人を擁するプロイセン軍・オーストリア軍にとっては格好の餌食であった[7]。 1788年から1792年の四年セイムにおいて、改革に向けた大きな動きが持ち上がった。この時、周辺諸国はフランス革命への対処やオスマン帝国との戦争(露土戦争、墺土戦争)に忙殺されており、ポーランドに介入する余裕が無かった。またロシアはスウェーデンとの戦争も同時に抱えていた[8][9][10][11]。
背景
ポーランド・リトアニア共和国の衰退
改革の試み